フィレンチェの中央市場
ニガウリ

オクラ
パプリカは大きい
なす
アスパラとインゲン豆
アスパラ、レタス
トマト
ジャガイモ
長ネギ・トマト
特大マッシュルーム
中国人と思われる人の店
大根も・・・、中華食材が揃っている
ニンジン、ズッキーニ、キュウリ
カリフラワー、キャベツ、セロリー・・
サツマイモ
ネギ
パパイヤ
サツマイモ(スイートポテト)
ショウガとニンニク
空豆
里芋
長いも
インゲン

メロン
レモン
リンゴ、キウイ、オレンジ
オレンジ、ザクロ
イチゴ、サクランボ、洋ナシ
ここイタリアは中華料理店が少ない。
2軒見かけた。アメリカではどこの街に行っても必ずと言っていいくらい
中華料理店はある。辺鄙な街にたどり着いても中華料理店があり
同じ東洋人の好で入ってほっとした思い出が・・。
旅行中の不安な中、にこやかに迎え入れてもらえうれしかったことを思い出す。
「同じアジア、友達」と持て成された。 ノバスコシアのハリファックスという田舎街でのこと。 私がそんなところへ行った理由は大学に陶芸学部があったから。
日本人がやってきたと、歓待された。商社駐在員とハリファックス大学の工学部に留学してきていた人、なぜこんな大学に、と質問すると「空気が澄んでいて光学の研究に適している場所です、ここに最先端が。将来のため光通信を研究しています。」と答えが。
・・・やっぱりそう時代になりました。
・・・・1970年代、北米ではどんな街に行っても、中華料理店と日本人商社の駐在員に出会えた。日本人がエコノミックアニマルと言われた時代・・。
カナダの北の外れの街では・・ 日本人(商社)が毛皮を買い集めるので、値段が上がり
寒いカナダでは必要だった毛皮が着れなくなった、とこぼされた。思い出せば、そのころ南の鹿児島でもデパートに毛皮が売っていた。・・しかもバーゲンで。
バンクーバーでは日本商社が 漁船にヘリコプターで乗りつけ 港に上がる前の魚を
青田買いするので魚が市場まで届かない、と新聞に書かれていた。1980年。
日本もそんなことをやっていた。鹿児島で毛皮が必要だったとは到底思えなかった。
・・・それが悪いことと思うならばyouには1億分の1の責任がある、それをどう思うか
話しなさい!と詰め寄られたことを思い出す。
今日も、ここフィレンチェの街中、中国人団体客が押しかけている。
商店街も美術館も・・・
日本人と思われる人を5,6人見かけた。
土産物店の前を通ると、ニーハオ、と声を掛けられる。
それでもここの市場では見かけない。
美術館の有名な作品の前、街中の観光スポット、には中国人観光客団体がいて
スマフォと自撮り棒で写真撮っている。
私が1980年ロスアンゼルスにいたころ
日本人がそうでした。 団体で押しかけ、物を買いあさる光景が見られた。
エコノミックアニマルと言われた時代・・
ロスの日系新聞に実際あった記事、・・・
ハワイの戦没者墓地では日本人観光客の出入り禁止になった・・・
理由は、日本人団体客は戦没者墓地で立ち小便するので顰蹙(ひんしゅく)をかっている。
「旅の恥はかき捨て」を行使していたのだろうか・・・
それとも、前夜酒盛りで飲みすぎ・・トイレが近くなって仕方がなかったのか・・・
胸に手を当ててみて・・・これが40年の日本人の実態。
ロスアンゼルスの靴屋で、「この店で一番値段の高い靴をください」と言ったのは
日本の地方から視察旅行に来ていた県会議員団の客人でした。(実際居合わせた)
東洋人(黄色人、カラードピープル)と下に見ている白人店員は、その客人の肩の埃を払う。仕草を見せた。千ドルと聞いて、安い!と・・・その光景は今でも消えない。
「他山の石」「人の振りみて我が振り直せ」・・・の格言を日本に教えたのは中国。
2年前のパリでは50m間隔で日本レストランがあった。寿司、ラーメン、串焼き等々。
ローマでもフィレンチェでも あまり見かけない。中華料理店も・・・
市内は日本製のハイブリッド車が目立つ。
ドイツ、欧州車は大半がデーゼル車、ベンツもBMW、もアウディも対抗している感じ。
電気自動車も少なくない。
運転手付きの黒塗りのベンツでもデーゼル特有のガラガラ音を立てて走っている。
ガソリンエンジン車を余り見ない。
世界中から集まる観光客が首から下げ、手にしているのは
すべてと言っていいほど日本製のカメラ。ニコン、キャノン、ソニー、パナソニック、
カシオ・・・たまにドイツのライカをみるぐらい。
1980年代中国は文化大革命のころ、毛沢東、紅衛兵、毛語録・・・
海外旅行する中国人って皆無だった時代。
故郷を捨てて移民となった人々は中国人に限らず
それぞれの価値観、人生観を持っていたように思えます。
故郷を捨てたり追われたりした人がアメリカやカナダ、その他の外国の
移民となっている。それなりの理由と、意志を持っていたように・・